天安門事件から30年!戦車でデモ隊を蹂躙した中国はどう変わったのか?

時事

天安門事件とは

概要

天安門事件は厳密には2つあります。ひとつ目は1976年4月5日に発生したもので、周恩来追悼に捧げられた花輪が撤去されたことに怒った民衆が政府当局に暴力的に鎮圧された事件(四五天安門事件)。そして、1989年6月4日、中国の民主化を求めて天安門広場に終結したデモ隊に対し、軍隊が武力行使し多数の死者が出た事件(六四天安門事件)。

今回取り上げるのは後者のほうで、2019年6月4日で事件発生から30年を迎えました。数千の兵士が3万とも言われる群衆に発砲し、死者は多数に及び天安門広場は流血の惨事に。戦車の前に立ちはだかる男性など、ショッキングな映像も残されており、共産党の一党独裁が続く中国がひた隠しにする事件となっています。

事件の発端

中国(中華人民共和国)は、1949年の建国以来、中国共産党による事実上の一党独裁政治が敷かれ、社会主義路線を築いてきました。そんな中、中国の民主化に積極的だった胡耀邦総書記が死去。胡耀邦に共鳴する学生は民主化を求めて、5月4日には約10万人が天安門広場に終結しました。

この運動は北京だけでなく、全国の都市に広がっていき、ついに政府も動きます。5月19日に北京に戒厳令が布告され緊張は一気にヒートアップ。趙紫陽総書記らが説得を試みますが学生たちはデモを強行。そして、1989年6月4日未明、中国人民解放軍はデモ隊の鎮圧を開始しました。

戦車と兵士が繰り出し、学生らに向かって発砲。「どんな手段を使っても」排除するよう命じられた兵士たちは、武器を持たない学生たちを容赦なく蹂躙しました。死者は数百とも数千とも言われていますが、中国政府は一切の詳細を明かしていません。学生に理解のあった趙紫陽は失脚、抗議者とその支持者の逮捕が行われました。

民主化を求めた学生たち

天安門事件は学生らのデモ活動が発端となって起きた事件。胡耀邦総書記の追悼集会で集まった学生らは、中国共産党の独裁体制打倒を叫びます。しかし、中国共産党の機関紙「人民日報」は、学生の運動を動乱と位置づけ、中国共産党の指導に反するため断固として排除しなければならないと報じました。

学生らはハンガーストライキで対抗。盛り上がる学生運動の最中、趙紫陽が学生側と話し合いの場を持ちましたが、平和的な解決を模索する趙紫陽に対し、過激な意見を持つ学生との間で交渉は決裂。趙紫陽を政敵と目していた鄧小平は、デモを反社会的行動とするだけでなく、趙紫陽をも弾圧する動きに出ました。

その最高指導者とされているのが当時北京大学1年生だった王丹でした。王丹は、ウアルカイシや柴玲とともにデモを引っ張ったものの、事件後、指名手配されて逮捕。投獄されたのち、1998年にアメリカへ亡命。バーバード大学で博士課程を修了し、現在は台湾で教鞭を執るなどしています。

死者数

中国共産党の公式発表によると、学生や軍人を合わせて319人。しかし、これは中国の官制報道なので信憑性は低いです。そもそも中国がもみ消したいと躍起になっている事件なので、現在のところ検証が難しく、正確な数字を出すことは不可能でしょう。数百から数万に及ぶ複数の説があるほどです。

2017年末に機密解除されたイギリスの公文書では、「最低に見積もっても一般市民の死者は10,000人以上」と報告しています。そこには人民解放軍による血みどろのむごたらしい弾圧の様子が記述されています。その他の海外発の公電などでは、死者は数百では済まず、千人単位だとの報告が多いです。

天安門事件後の中国

体制の地固め

事件当時の中国共産党には、共産主義を徹底する長老派の鄧小平と、穏健派の趙紫陽がライバル関係にありました。開明的な趙紫陽は経済開放にも積極的で学生から人気があったのです。しかし、事件後に趙紫陽は失脚させられたため、鄧小平が政権闘争に勝利した形となり、共産主義路線はますます強化されたのです。

そうした中で、学生の中心的人物だった王丹をはじめとする反体制派の一斉検挙が行われ、民主化活動の実行派は次々と逮捕、亡命することになりました。鄧小平は事件後に一切の役職を退きますが、後任の江沢民をはじめ政界に絶大な影響力を保持し続けます。

中国の国際的立場

アメリカ、フランス、西ドイツ(当時)など西側の民主主義国は、中国共産党による市民に対する武力弾圧を「虐殺」と表現して非難。対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止など厳しい態度で対応しました。また、在中企業社員の引き揚げ、ODA凍結といった経済的な制裁も加えました。

中国を手助けした日本

西側諸国からの制裁が厳しくなる中、日本もその動きに追随するのですが、中国の孤立化を回避すべく海部首相が訪中。西側諸国に先駆けて対中制裁を解除し、1992年10月に天皇皇后両陛下の訪中を実現させます。日中国交正常化20周年の節目の年であったこともありますが、権威のある天皇が訪中したことで西側諸国が態度を軟化させ、外交関係を正常化させたという見方もあります。

なお、中国側で天皇陛下を迎えたのは、楊尚昆総書記。江沢民国家主席との二枚看板だったのですが、93年、江沢民への権力委譲を進める鄧小平の意向によって退任を余儀なくされます。実権を握った江沢民は、94年から愛国教育、つまり反日教育をスタート。それまで中国は反日国家ではなかったわけで、天皇訪中が仇になって返ってきた格好となりました。

情報統制

現在、中国で天安門事件を検索しても、何の情報も手に入りません。「6月4日」「天安門」など事件を連想させるキーワードを検索しただけで接続不可能になるとのことです。中国国内のサーチエンジンも当局の統制を受けており、2010年にはグーグルが市場から撤退、ヤフー検索も利用不可能になるなど、天安門事件そのものを知らない中国人民も。

そんな中、2010年、作家の劉暁波にノーベル平和賞が授与されることに。劉暁波は、天安門事件で民主化運動のリーダーのひとりとして活躍し、以後、中国の基本的人権のための闘争を続けてきました。中国政府は受賞式典の開かれるノルウェーに圧力を掛けたり、国内の海外放送を遮断したりして猛抗議。

劉暁波は2009年に国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決で服役してたため出席はできませんでしたが、この受賞を機に劉暁波の支援ならびに中国の人権軽視を訴える運動が発生。劉暁波は2017年に末期がんで死去しました。なお、中国政府はこのノーベル平和賞に対抗して孔子平和賞を創設しました。

香港と台湾で民主化運動

概要

天安門事件は、中国政府による民主化運動弾圧の象徴的な事件となり、その後の周辺諸国、特に中国との関わりの深い香港と台湾で近年、大きな運動が発生しました。中国との一国二制度体制下に置かれてじわじわと締め付けられている香港、中国からは分離しているにも関わらず併合圧力を受けている台湾においてです。

雨傘革命

2014年9月に香港で始まった民主化要求運動のことで、中国政府が自由な立候補を阻む選挙制度を決定したため民主派の学生が集結。雨傘を開いてデモ活動をしていたため雨傘革命と呼ばれています。香港は、1997年にイギリスから中国に返還された後、2047年までは香港の独自性を保つことで合意。これが一国二制度たる所以です。

しかし、普通選挙が制限されていて、政治のトップを決める行政長官では親中派の限られた人たちしか投票できません。これでは香港の民意が反映されないため、普通選挙を求める市民が香港中心部のセントラル(中環)地区で座り込み運動を開始し、そこに学生が合流し大規模な運動に発展しました。

また、2015年には、銅鑼湾書店の店長らが次々に失踪するという事件が発生。この書店は中国本土の政府への批判的な本を扱っていたということで、中国当局に目をつけられ拘束されていたことが判明しています。

ひまわり学生運動

2014年3月18日、台湾の学生と市民らが立法院(日本でいう国会議事堂)を占拠した学生運動から始まった社会運動のこと。こちらは天安門事件との直接の関係は薄いのですが、親中派の馬英九総統(当時)が進めていた「海峡両岸サービス貿易協定」の、立法院による承認を阻止する目的で行われました。

馬英九率いる与党国民党は台湾の経済競争力を向上させると説明しましたが、野党民進党は台湾経済が中国に支配されるとして反対。危機感を抱いた学生が議会を占拠。議場内の机や椅子をバリケードにして立てこもる学生の様子が、YouTubeなどで生中継されました。

今後の見通し

30年前、国のためを思い天安門広場に集結した学生たちは、中国人民解放軍による銃弾や戦車に蹂躙されました。その後、政府当局からの情報統制により言論の自由は著しく制限され、若い世代は天安門事件の情報に触れることはできません。中国共産党が現状を維持する限り、天安門事件の記憶は消し去られることでしょう。

そうした中国の体制に失望した知識人らはアメリカなどの海外に亡命し、外から中国の民主化運動を盛り上げようと機運をあげますが、人民解放軍の圧力により芽を摘まれては勃興するというイタチごっこが続いています。このままでは天安門事件は完全に葬り去られることになります。日本の戦争体験者のケースと似ているかもしれません。

今年6月4日の中国外務省の耿爽報道官は、記者会見で、当時中国政府がとった行動は完全に正しかったと一般市民への弾圧を正当化しました。天安門事件から30年経った現在、中国ではインターネットの規制や言論統制が強化され、民主化を求める声は徹底して抑え込まれています。

習近平国家主席は、任期制限を撤廃する憲法改正を成し遂げました。事実上の終身政権を実現したわけですが、党・軍・国家を統べる独裁体制が今後も続くのであれば、中国国内の人権状況が改善する見込みは薄いでしょう。第2、第3の天安門事件の火種はすでに燃え盛っているのかもしれません。